昭和43年01月24日 朝の御理解



 信心の心得の中に、障子一重がままならなぬ人の身ぞ。次にまめなとも、信心の油断をすな。障子一重がままならなぬ人の身ぞ、まめなとも信心の油断をすな。確かに障子一重がままならぬ人の身で御座いますよね。同時に、まめなともと言うのは、健康であってもと言う事です。と言う事は、平穏無事であっても、何時どの様な事があるやら分からんと。だから信心の油断をするなとこう仰る。
 どうでも一つそう言う様な意味合いで、油断をせずしっかり信心の稽古をさせて頂かなきゃなりません。夕べお月並祭があの、終わりましてからで御座いました。総代さんの高芝さんの、一家中、お母さんを除いて皆、お参りして来ておりました。それであちらで私くし、こたつの間で控えておりましたら皆で、やって参りましてから、今日は、先生大変広大なおかげを頂きました。
 どっか福岡の田舎の方へ兄弟で一番長男と、二番目がおかげ頂いております。自動車で途中でそのトラックと正面衝突をして、正面衝突をした瞬間に後から追突された。両方からこうやられたんですねけれどもやっぱ神様のご都合って言うですかね、もう昨日初めてあの運転をする所のあのこう是なんかあれ何か、あるでしょうあれを昨日初めて付けて行ったちいうんですよね。なんでか知らんけれどもそのやっぱし切りにその。
 付けて行きたかったっち言う訳なんです。それでその向こうからその二人も乗っとるけれどもその、よそ見していきよる後ろ向いて行きよる。それでそのこっちが分かったもんですからそのこちらを止めたんですね。けれども向こうは後ろ向いて行きよるもんじゃから、そのままぶつけたんです、しかも後から来よったのをそれ追突したから。もうとにかく自動車は後ろ前からこうやってやられた。
 けれどもですねもうこうやっぱそう言う、ゆとりがあるもんですから、あんたそん時どげな風に金光様って言うた、まあ金光様じゃなかったらしいですけれどもですね。ほんとに親の信心のお徳だと思いますよ。もうこれこそかすり傷一つしとりません。もう下にピターっとこう伏せたそうです。そりゃあもう自動車は大変ないわゆる大破して、しましたそうで御座いますけれどもですたい。
 昨日の夕刊に何かもう随分ひどい、やっぱりその事故があったそうですね。自動車が燃えて二人も焼け死んでしかも何か新婚の、もう間際と言った様な方達がね二人亡くなったり焼け死んだり、重態であったりと言った様なもう本当にあのそれと是と一つに見てですたい、本当信心しておると言う事は有難い、まあこう目の当たりに信心のある者とない者の違いを見せて戴いた様な気が致します。
 けれども実は私もショックだったんですよ。それを聞いてから何故って私があの8月の30日の大払い式に、大払いそれまではここでもう随分事故が多いかったです。所がですねそういう事故は初めてでした、今度あの8月の15日の大払いを、あの時私900台ぐらい自動車のお祓いをさせて頂ましたよね。しかも総代のうちのその、高芝さんとこの息子が、しかも兄弟二人も二人乗って行きよる車がですねそう言う事じゃった。
 まさしく障子一重がままならぬ人の身ぞと言う事が分かりますよね。同時にですまめなとも、信心の油断をすなと言う事を、私は痛感いたします。最近勿論こうして寒修行が始まりましてから、ご夫婦こうやって参って来ます。だけじゃない一番息子が三人おります。今大学に行きよります、一番下の息子が学生会でもう、今もうそれこそ熱烈にその修行を、修行の有難さが段々分かって来た。
 ところがその盛昭君と言います、盛昭君が最近僕はほんとに本気で修行になったら、家の中に何とはなしにおかげが受けられるぞ、おかげがあるぞと言った様な雰囲気が生まれて来ただけに、でも僕が修行しよるけんじゃろうと言うぐらいにある。確かに家の中にはですね、家族を上げて本当に修行、家全体が修行体にならなければいけない。だから兄ちゃんどんが、まちっとその本気で信心してくれると、まだおかげ頂こうばってんというのが、その高芝さんの、言う事であった。
 私もおりゃ言いよった、長男と二番目が今こちらに帰って来ておるから、しかも何時も自動車に乗って危ない仕事をしておるから、ほんとに私達も本気で信心をする様に、信心しないじゃない、参って来んじゃない。けれども是では大した事はない。私その事をですね、あのお礼申させて貰よりましたら、お広前の真ん中にストーブがあって、そのストーブの火が消えておる所を頂きました。
 いかになら信心をしておりますと形があってもですね、それに火がともってなかったら、絶対温かみは無い訳です。昨日、久富繁雄さんもそれを頂いておられますですね。あの信者控え室の、あのストーブが、火が消えておると言う所。やっぱ同じ様な事だと私は思います、信者さん方にある。神様のほうは生き生きとした御比礼が、例えば御結界を中心にして、生きた働きがありよらなければここは御神前は。
 是も昨日久富さんが頂いておられのに、開扉したお神様のお扉を開いた。所が何か空箱の様な物が出て来た。そして神様からですね、「神は社の中にはおらんと神様が仰った。」ねぇだから、ここに神様を現すのはもう絶対、いわゆる御結界の働きというものがです。生き生きとしておらなければ、ここに神様の働きはないです。又私共が拝ませて貰う、神様って言う神様はそう言う神様じゃ。
 神が社の中に入ったら、世界が闇になる、と仰る様にですね、社の中に篭って御座るという神様じゃない訳なんですねぇ。ただ私共が、その信心稽古させて頂きますのにです、その拝ませて貰う対象として、そうさせて貰うだけなんだ。成程、兄ちゃんどん二人の場合はですね、信心がない訳じゃないばってん、火が付いてない、ストーブに火が付いてない様なもんだと。
 で私昨日申しました。ほら見て御覧あんたがお気ずけ頂いとるとよ。あんただん盛昭さんがどげん言わんでん。もうお父さんにゃお母さんにゃそうよ、もう兄ちゃんどんが、本気でいっちょ信心してくれると修行してくれると、高芝の家ももっと、生き生きとした御比礼が頂かれ様、ものにと言う様な、意味の事を言うております。そればってん神様のおかげと言う事は分かるね、と言うて話した事でした。
 あの、あちらの宇美の方でしたね、博多の田舎の方でしょう。それでそう言う事故があったですからねその、警察に電話かけたんですよ。所が何と向こうからね、電話を受けたのが東さんじゃったんです。ここ菊栄会の。それで高芝たかしち言うもんじゃけん、高芝ち、お前んとこの親父は何ち言うかち言うたら、ひでおち。なら高芝さん所の息子か、って言う様な事だったそうです。
 もう是だけでもですね、神様のご守護の中に、こうなってあぁあっとると言う事が分かるでしょうが。だから、私はあんたどんが今日は広大なおかげ頂いたっち言うばってん、広大なおかげじゃなかっち私が言うた、広大なそりゃ今までの、だったらそれは広大なおかげ頂くのじゃろうばってんか、今一家を挙げて修行させて貰わなん時に、肝心要の親方と二番目が、修行せんなら、そんな事があるもんか。
 もうまさしくその、お気ずけいただいとると。ほんとに、広大なおかげ頂きましたとこう思うでしょう。はぁほんとにお気ずけ頂いた、それどこじゃありません、ここにですね、おかげが変わって来るんですよ。「素直な心に信心が進む。真心にはおかげと仰る」信心が進むと言う事はですね、素直にならなければです、もう俺がつがよかつのごつ思うたりしたらもう絶対、信心が進まんです。
 例えば、高度な信心を頂いておっても、もう俺がつが間違いなか、俺がつがと言うようなですね、もう素直さがなかったら、もう自然の中の神様の働きというのもをです、そのお気付けをお気付けと、キャッチする事すら出来ん。神様の働きがですね。私は今朝方から、秋永先生からですね、賞状を頂く、頂きよった。それがですね、どういう賞状かと言うと、それが面白いですもん。それが達筆で書いちゃる。
 秋永友良ち。信徒会会長秋永友良。それで私にこうやって下さりよる。それがもう面白い面白いどう云う事が表彰かと、あなたの持っておられる三味線が一番素晴らしいという、表彰じゃったほぉ三味線が上手というなら表彰受けるばってん、持っておる三味線が素晴らしいというのはどう言う事じゃろうかと、思いましたけれども私は、昨日私の二番目の息子が頂いておるその事からですねもう三味線がバラバラになっておる。
 だからその矢吹さんに是を修繕して下さいと言うてその、自分のこうバラバラになった三味線を修理に頼んでおる所をお知らせ頂いた。昨日一昨日でしたかねあのさわり駒のお知らせを頂きあのお話をさせて貰ましたでしょう。三味線の一番上に小さいマッチの軸よりもっと薄い様なこの小さい駒があります。是はさわり駒と申します調子を合わせる時に、あれが付いておりますとそのビーンと余韻が出て調子がすぐ合わせよい訳です。
 だからほんとにお互いが、そのさわり駒を付けた信心をしとかにゃいかんですよ。神様から、ほんとにおかげを頂けれるお知らせを頂きよっても、お気付けを頂きよっても、その調子が合わん。心の調子が。そう言う事を申しましたがです。その日で御座いますね頂いたのは。光昭が頂いておりますのが、ならお互いのはですまださわり駒どころか、もうバラバラになってる様な物だと三味線が。
 心に頂いおてるその、三味線と言う物がですね、調子の合わせ様もない。先ず三味線の修繕から。矢継ぎ早、矢次さんと言う事は、一昨日から昨日にかけて、矢継ぎ早にさいて頂いておるあの御理解の事なんです。昨日久留米の井上さん、姉さんの方ですが、親子で参って来ておりました、この朝のお参りに。娘さんが非常に熱烈な、修行精神のある人ですけれども、大阪の方へ去年嫁入りました。
 それで今帰って来ておりますから、親子でお参りをして来ておる訳なんです。それが本当に神様のご都合って言いますかね、御霊様の働きって言いますかその、先日大阪の方から電話が掛かって来たんですね。何かあちらで、そのお父さんのお位牌を持って行っとる訳です何かお掃除しよったか何か知らんけれどもですね、お位牌のその、戒名を消してしもうた。消えてしもうた。
 ああ気持が悪いけん電話掛かって来てそこで久富先生がその、それを受けられたんですけれども、昨日参ってきてからです。この1月の30日が、その亡くなられた、お父さんの立ち日にあたる。それで子供達も長崎に行っとる子供達も、皆集まって、こちらで改式のお祭りと同時にあの、慰霊祭を仕えたいとこういう、25年祭かなんか。私それをですね、ほんならお父さん、お名前は何ち言いよったの。
 何々と言う、幾つで亡くなったの、幾つ幾つ。それをちょっと控えとこうと思うて私、メモしとこうと思いまして、ちょっとこうひら、広げてみたんですよ。そしたらこの紙きれが出て来ましたから、この紙ぎれに、その井上何々と言う、39歳で亡くなったというこの、それを書かせて頂こうと思って紙ぎれを出したら、是にね、こんな事が書いてあった。是はもう何ヶ月か前にですね。波多野さんがあの句をなさいますね。
 俳句を作られます。それを出されて、先生から直された句なんですよ。「みたまやに 一人ともして はるのよい」。良い句だと思いますよね。ほぉ、こげんとこにも御霊様の働きがあるのかと私は思いましたよ。1月の30日所謂この春にお父さんの、御霊様のお祭りをしようとこういう。ところが先生がそれを、それはちょっとこう、直されたらもっと、その句が生き生きして来ますよと言うてから、その直されたのが、「みたまやに、ともして一人、はるのよい。」
 ともしてと、一人とが反対にこう置き換えただけ。それで句が生きてきたと言う訳なんですね。「みたまやに一人ともして はるのよい」。是が波多野さんの句であり、先生が直されたのは、「みたまやに、ともして一人、はるのよい」。そいう言う様な意味でですね、その御霊様の1月30日御霊のお祭りがここで御座いますが、あの本当にそう言う働き、そしてその成程お祝いの字が消えてしもうたのも訳が分かるでしょう。
 それで新たなお道流儀の贈り名を頂きますものね。必要じゃなくなった訳なんですもうその時分から、御霊の働きが神様働きが、あっとったと言う事を感じますです。と同時に、ならこう言う様なちょっと紙、紙ぎれの中にでもですね。いわば、自然の働きの素晴らしさと、いわば親子が、御霊様のお祭りを仕えようというとこに、こう言う様な、まあ落書きに書いとる様な物が、出て是に書いてある。
 だから私それ見せましてからね、もう今度御霊様の喜びを、ほんとにあの感じる。神様の喜びを感じるね、自然のこういう働きに中に、あんただん今度30日の日に、御霊のお祭りをするよと言うて今申しました事で御座いましたねぇ。そう言う様な微妙な例えば働きでもですね、私だからキャッチ出来とったですここで言うなら。いやさわり駒の方がしゃんとしとる。
 秋永先生から表彰状受ける位に、そこんにきがその、まあ調子が合わせよい状態にあると言う事。と同時にこのここから皆さんが思わなければならない事はです、成程ちょっと思いを入れ替えると。かてっぽの句は死んでしまう、片一方の句は生きて来る。一人とね「一人ともしてというのを」ですね「ともして一人とこう」ね、ともして一人とその置き換えただけで生きて来る。
 私共の心の状態でもそうなんですねぇ。高芝さんのその、昨日のそういう事故、成程それも広大なおかげですよ。とにかくかすり傷いっちょしとらんんとじゃからね。「はぁもう広大なおかげ頂きました。」それけん広大なおかげじゃなかち。それはもうあんたどんがもう、高芝の家、一家に特別大きなおかげを受けなきゃならんこともあるし。又受けていきよるのだから。
 ここに兄弟3人が力を合わせて信心させて貰やぁ、お父さんやらお母さんの信心が、愈々有難い者になって来るんだ。そういうその証拠には、親方と二番目だけじゃないか、そう言う訳だからあんたどんがお気付けと思うて、本気でほんなら、寒修行にでも出て来るごたるおかげを頂かせて貰うたらです、おかげが頂けれる。それをね、広大なおかげて言うとったら、もう死んでしまうのですよ、その事故が。
 唯、広大な事故、それをまあ言うならば、ここに何とはなしに、私の信心がショックを受けるぐらいで、私の信心自体が傷を付けられる感じがその、するものね。それはあんた両方から、あのされたっちゃけん、両方からやっぱり、20万近くかかるらしいんですよその修繕が。それはもう自分な一銭も出しゃしませんですよ。けれどもそげなこっだけが広大なおかげじゃなかて。
 そう言う例えて言うならば、もう2人一緒にしまえとったっちゃ、しょうなかごたる事故におうとって、かすり傷一つしとらんじゃったんが、成程広大なおかげだけじゃいかんて。そこんとこの置き換えなきゃいけんて。一人ともしてとそこをともして一人と言う事によって、この句が生きて来る様にです、私共のそのおかげの受け方、おかげのきびと言うものはですね、もうほんとに心次第なんですよ。
 ほんとに、こういうお気ずけを頂いたと言う事が、広大なおかげで御座いますじゃなからにゃいかんのですよ。怪我しなかったりお金が一つも要らなかったと言った様な事が広大なおかげじゃないです。こういう素晴らしいお気ずけを頂きまして、このような広大なおかげを頂きまして有難う御座いますと言う事に、なって来なければならんのです。ねぇ。障子一重がままならぬ人の身とこうまめなとも信心の油断をすなと。
 ここんところを一つ、皆さんがよく頂かせて貰うてですね、素直な心に信心が、それを素直に受けなければ、はぁ親先生がああ仰るそればってん、ちこう言うたらもう信心が進まん。それを素直に受けて、はぁほんに、そうで御座いましょうと言う様な、素直な頂き方をする所にです、言わば、ストーブに火が灯る様なものなんだ。だからねぇ愈々お広前一杯暖かいおかげが頂かれると言う様にですね。
 素直な心に信心が進む真心におかげ。信心が進まなければ矢張りおかげも大きいおかげになってこない。どうぞ一つそこん所をですね私共のこふうにですね、私が例えば申しましてもです自分の信心の生き方の、それは間違いないですよ間違いないからおかげは受けておるですよ。だから先生は仰るばってん、自分なこうだと。言う風に自分の枠から一歩も出ようとしない人があるんです。是ではもうそこから信心は進まん。
 はぁほんにそうです何故ってほんとに調子が合うとは言うならば、ここでは私が一番だと言う事なんです、表彰状受ける位にあると言う事。だから私が感じた事の方が本当なんだ。あなたの思うておる事も本当なんだけれど、私が思うておる事はまぁだ本当なんです。だからそれにさっさとこう付いて来る信心にですね、お互いならせて頂くよってです信心が素直な心に信心が進む。自然の素晴らしい、お位牌の字が消えたり。
 お届けをさせて頂く時にこの様な、言わば御霊様の事に関する、それが出て来たり。そう言う例えば微妙な働きがありよっても、私共じゃ気が付かないそこん所をです。私共の心のその感じておる事をです、あんたの感じておる事も嘘じゃないよ、それは本当なんだけれど、私が言うとる事がもっと本当だと私が言うたら、ほんにそうですねとこう言えれる。言うならばこりゃ先生じゃない。背うた子にでも教えられる。
 是はもう絶対素直な心がなからなければ、子供のどんがねぇごつ言いよるかと言う事に成って来るんです。ほんな事子供が言いよる事にでも教えられるという、素直な信心が必要なんです「素直な心に信心が進む。真心におかげ障子一重がままならぬ人の身ぞと。まめなとも信心の油断をすな」平穏無事だからと言うて私は油断をしてはならない。そう言う言わば本気で火の灯ったストーブの様な信心をさせて頂く事、その事自体が有難いという信心に一つならなきゃならんと思うですね。
   どうぞ。